お土産にいただいたお肉は翌日、早速シチューにして、家族みんなで美味しくいただきました。
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週末、新潟県との県境近く、長野県小谷村に行ってきました。
大網集落で生活する方々の団体「くらして」主催のワークショップ「鹿の解体 皮なめし 暮らす道具」に参加してきました。
帰ってきて、いま、食べるということ、生きるということを考えています。
それはとてもシンプルで、とても日常的です。
そして、解体するということ、殺すということを考えています。
それもまたシンプルだけど、僕にとっては非日常です、そう思っていました。
でもその日常と非日常は、たった数時間、車を走らせるだけで、そこに地続きで在るんだよね。
「くらして」の方が狩った鹿を、一緒に丁寧に解体し、いただくことで、自分の血、肉、エネルギーとなることがとても自然に、文字通り、腑に落ちました。
家畜は人が食べるために育てたものだけど、それも同じ。昨日、食べた鶏の唐揚げも、朝食のスープのベーコンも。
日常では巧妙にオブラートに包まれているように思うこの部分、撮影している間も、写真をセレクトしている今も、こうして見せることに抵抗感が少なからずあります。...なんでだろう。美しい景色や心象風景を見せるのとは違う、見せる人や、見せる場所を選ぶような感覚。血の赤が、人に痛みを想像させるのかな。
みんながみんな、その痛みと向き合いながら食べる必要はない、そう思います。けれど、いま口にしたその食べ物がどこで、誰の手を介して、どうやって僕の目の前へきたのか、という意識は常に持っていたいなぁ。
そこには、命があって、その命を奪う人がいて、そして、自分が食べたものだけが自分の身体、そのものだから。
結婚すると考えることだけでなく、顔つきもなんとなく似てくるなんていうけど、毎日の食卓で、同じ食事を共にする家族は、血肉を分け合って生きている同体なのかもしれない。
その土地で育ったものを食べ、その土地に生きるということは、その身体はその土地そのものなのかもしれないなぁ、と感じる週末でした。
肉は身体に。そして毛皮は、「くらして」の方々に「皮」から「革」へ鞣していただいて(革を柔らかく、と書いて”なめす”と読むことも初めて知りました!)、来月、暮らしの道具を作りに再訪します。
今日はなにを食べた?
2 comments:
スヤマさん、こんにちは。
この記事、今日読んで、
今、私がまさに考えていることだったので、
何度も何度も読みました。写真を拝見しました。
私が去年の11月から毎日通っている職場の裏には
中央卸売市場 食肉市場があります。
会社の窓から毎日、車に乗せられた牛や動物の姿を見えます。
私にとって「屠畜」は、毎日の生活に関わっているけれどココロのどこかで「非日常」だと思っていました。
でも、それこそ徒歩で5分もかからないところにその場所はあったんです。
この場所に会社が引っ越してから
今までもぼんやりと感じていた
「命をいただく」ということを
もっと強く考えるようになりました。
うまく言えないんですけど。
わたしたちはどこかで、何かの生命のエネルギーをいただいて生きている。
そのことを毎日実感しながら暮らしています。
とりとめもない話でごめんなさい。
ゆうたんさん、今、コメントに気がつきました。
すみません。
先日は写真展、とてもよかったです。ありがとうございました。
そうでしたか、食肉市場。
そうなんですよね、なんだろうかモヤモヤした気持ちになるんですよ。
魚ならいいのか、植物なら?哺乳類だから抵抗を感じる?でも美味しくいただいている。
人となにが違うのか、なにが同じなのか。
僕もうまく言えないんですけれど、
でも、僕が見てきたことが、こうして伝わって、
なにかを考えるきっかけになってくれたことは、
とても嬉しいです。
ありがとうございます。
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