27 January, 2015
22 January, 2015
たべるということ。
お土産にいただいたお肉は翌日、早速シチューにして、家族みんなで美味しくいただきました。
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週末、新潟県との県境近く、長野県小谷村に行ってきました。
大網集落で生活する方々の団体「くらして」主催のワークショップ「鹿の解体 皮なめし 暮らす道具」に参加してきました。
帰ってきて、いま、食べるということ、生きるということを考えています。
それはとてもシンプルで、とても日常的です。
そして、解体するということ、殺すということを考えています。
それもまたシンプルだけど、僕にとっては非日常です、そう思っていました。
でもその日常と非日常は、たった数時間、車を走らせるだけで、そこに地続きで在るんだよね。
「くらして」の方が狩った鹿を、一緒に丁寧に解体し、いただくことで、自分の血、肉、エネルギーとなることがとても自然に、文字通り、腑に落ちました。
家畜は人が食べるために育てたものだけど、それも同じ。昨日、食べた鶏の唐揚げも、朝食のスープのベーコンも。
日常では巧妙にオブラートに包まれているように思うこの部分、撮影している間も、写真をセレクトしている今も、こうして見せることに抵抗感が少なからずあります。...なんでだろう。美しい景色や心象風景を見せるのとは違う、見せる人や、見せる場所を選ぶような感覚。血の赤が、人に痛みを想像させるのかな。
みんながみんな、その痛みと向き合いながら食べる必要はない、そう思います。けれど、いま口にしたその食べ物がどこで、誰の手を介して、どうやって僕の目の前へきたのか、という意識は常に持っていたいなぁ。
そこには、命があって、その命を奪う人がいて、そして、自分が食べたものだけが自分の身体、そのものだから。
結婚すると考えることだけでなく、顔つきもなんとなく似てくるなんていうけど、毎日の食卓で、同じ食事を共にする家族は、血肉を分け合って生きている同体なのかもしれない。
その土地で育ったものを食べ、その土地に生きるということは、その身体はその土地そのものなのかもしれないなぁ、と感じる週末でした。
肉は身体に。そして毛皮は、「くらして」の方々に「皮」から「革」へ鞣していただいて(革を柔らかく、と書いて”なめす”と読むことも初めて知りました!)、来月、暮らしの道具を作りに再訪します。
今日はなにを食べた?
07 January, 2015
正月休み
お焚き上げ。
↑ 2015年のファーストショット。
無病息災、感謝を込めて。
美しい山並の写真もいいものですが、
ありふれた町中から見える、こんな景色が、
実はとても強く印象に残っていたりします。
母が煮た栗の渋皮煮。
正月のおめざに贅沢なスイーツ。
01 January, 2015
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