halo
日暈(ひがさ、にちうん)
光輪、後光
5月22日の朝。
そのとき、みんな空を見上げていた。
27 May, 2015
16 May, 2015
カモミールの匂い
図書館に通っている。
ふと手に取った本は、むかし持っていた本だった。
「翔太と猫のインサイトの夏休み」(永井均 著 ナカニシヤ出版)という中高生向けに書かれた哲学の入門書。
ぼくが大学に入ったときに、哲学の授業を担当していた永井先生の本だ。たしか、これ哲学の授業の教科書だったよね。いまや大学時代の教科書はほとんど手元になくて、恥ずかしい話、どんな本を読んでいたかもよく覚えていない。でも、猫!なタイトルやわかりやすく書かれたその内容から、この本はよく覚えている。(正確には、よく思い出すことができた)
そもそも天邪鬼なぼくは、子どもの頃から授業も受験も「なんのために、こんなことしているんだろう」って、ず〜っと思っていた。そしてその答えを追求するではなく、理由なき反抗をするでもなく、大学の中でもやっぱりぼくは真面目に授業に出るタイプでもなくて、自然に恵まれた信州の四季の中で、春夏秋はバイクに乗って、冬はスキーに行って、日々、バイトと友達と、女の子とお酒と、無為に過ごす学生だった。もちろん、その無為な暮らしで、かけがえのない友や恋人と、素晴らしい時間を共有できたわけだ。
ある意味、大学生らしい大学生だったけれど、ぼくはやっぱり真面目な大学生ではなかったんだと思う。
「なんのために」ということは、つまり結果を求めている。
ということは、結果が楽しくない(と思われる)場合、そもそも「やらない」ということだ。
けれど、ほとんどのことは何かをする過程で得られる。何かをはじめて、そして変化していくプロセスそのものが成長であって、学びの面白いところなんだと、日々、世界の変化、自分の変化に目を輝かせている子どもたちを見ていると、そう思えるんだ。はじめないことには、はじまらない。
本当は、頭でいくら考えたって結果が楽しいものかどうか、は、やってみなけりゃわからない。
昔持っていたこの本を手にとってあらためて読み始めてみると、いろんなことを言い訳にして、結果を出すこと、自分が何者かはっきりさせること、学ぶ、ということと向き合わずに逃げてきていたんだろうなぁ。
そして、それは今も、そう変わっていないな、と(苦笑
いまさら遅いかもしれないけれど、今からでも、
今、心底、知りたい!って気持ちでいっぱいだよ。